「なつかしい本の話」  2024年5月5日 吉澤有介

江藤 淳著、ちくま文庫、2024年3月刊
著者は文芸評論家。(1932~1999)。慶應義塾大学卒。結核療養中の1956年に「夏目漱石」で注目され、1958年の「奴隷の思想を耕す」で新進評論家としての地位を確立しました。1962年より2年間在米し。東工大教授、慶大教授を歴任しています。各種文学賞を多数受賞しました。「江藤淳著作集」全六巻。「新編 江藤淳文学集成」全五巻があります。
文学者の作品を要約することなどはできません。ただあまりにも読後の印象が強かったので、これはごく個人的にメモしたものです。ご容赦ください。先崎彰容の解説があり、「江藤淳の生涯を知る上では、最重要な作品かもしれない」という平山周吉の指摘を紹介していました。やはり本書の主題は、「なつかしい本の話」だけではなかったのです。
本というものは、ただ活字を印刷したものではありません。表紙の汚れや、手に取ったときの感触や重みまでが、深い意味を持っています。いまは手元になくても、幼年時代から著者の心に忘れがたい痕跡を残していたのです。本がなければ生きてはゆけなかったことでしょう。本書はそれらの本を手がかりにした、著者の貴重な自伝となっていました。
大正のはじめに海軍の重鎮であった祖父が亡くなると、祖母は青山の屋敷を引き払い、大久保百人町に移ります。戸山が原に近い家は大震災にも耐えて、深い森に包まれていました。女中たちなど、幼時の記憶は鮮明です。満4才半で、母が結核で世を去りました。著者も感染して、肺門淋巴腺で病床に伏すことが多くなります。父が新しい母を迎えましたが、病床で「のらくろ」や「冒険ダン吉」などから、ルビを頼りに大人の本を読み始めていました。「明治大正文学全集」などですが、とくに惹かれたのは小学2年のとき、自由が丘の従兄弟の家で読んだ「アーサー王騎士物語」「でした。これは後年の夏目漱石研究の伏線になっています。「モンテ・クリスト伯」に出会ったのも、その頃のことでした。絵本「孝女白菊」も愛読しました。西南戦争に関心を持つきっかけになったようです。
学校を休みがちだった著者に、新しい母は鎌倉の義祖父の家での療養を勧めました。義祖父は、引退した青山学院の英語教師で、小学生の著者を友人として迎え、自由に本を読ませてくれました。新しい母からの最大の贈り物だったのです。義祖父は、江ノ電の踏切の抜道の話題で、高浜虚子の「道」を教えてくれました。著者は江ノ電で通学することで、学校嫌いから一転して、はじめて人並の生徒になれたのです。健康も回復しました。
小学5年生では、一人で電車を乗り継いで東京の祖母の見舞いにも行けるようになりました。このころ谷崎潤一郎や、「若きウェルテルの悲しみ」にも深い想いがありました。
しかし百人町の家は、山の手大空襲で全焼していました。父母も祖母も鎌倉に移り、敗戦を迎えます。復員した叔父も加わり、鎌倉文庫の友人とも交流がありました。一家は、東京十条にできた父の銀行の小さな社宅に移りました。著者は、日比谷高校から伝統ある慶応英文科に進みましたが、突然喀血しました。新薬で回復はしたものの、チエーホフの「退屈な話」を読んだあたりで、一度自殺未遂しています。老子の影響か、伊東静雄の詩集「反響」にも震えていました。著者は一貫して、死と向かい合っていたのです。「了」

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